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2世紀の初めに、後漢の蔡倫という役人が製紙法を発明したといわれています。 それまでの木簡や竹簡では重く、司馬遷の『史記』が書かれた木簡は牛車3〜4台分 の量でした。軽い絹の布に文字が書かれたものは余りにも高価でした。 そこで蔡倫は、馬糞が踏み潰されて乾燥しぺらぺらの軽いものになっていることに ヒントを得て、木の皮や木屑をすりつぶして水でどろどろに溶かし、網ですくい薄く 延ばして、天日で乾かして紙を造りました。まだ、この段階ではフエルトは使われて いません。
この製紙法がヨーロッパへ伝わったのは、12世紀。日本へは7世紀のはじめ、聖徳太子の頃に伝わりました。日本ではこれに改良が加えられ、手漉きによる和紙が造 られるようになりました。 |
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イギリスで18世紀後半に産業革命が始まり、織物業に於ける機械化の波は製紙業 にも及びました。 もともと、ヨーロッパ特にイギリスでは毛織物業が中世から盛んでしたが、この毛 織物(ウール)を利用して紙が早く乾燥するように工夫・改良され、製紙機械(抄紙 機)が発明されました。
世界で最初に実用化に成功した抄紙機(長網:英語ではフォードリニアマシ ンという)
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| 当時使用されていたフエルトはウールで袋状(エンドレス)に織りあげた毛布で、 起毛・縮絨加工により表面が滑らかで吸湿性に優れていました。 これを織フエルトといい、数は少ないが現在でもこのタイプのフエルトを必要とす る製紙機械があります。 また、上図の金網も同じく袋状(エンドレス)の金属製品でした。 この部分はワイヤー・パートとも言われています。 |
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19世紀後半から欧米で製紙機械による紙の大量生産が始まりました。 日本では開国と同時に洋紙が輸入されるようになりましたが、1872年(明治5年) 抄紙会社が設立され、1874年我が国初の洋紙製造を開始しました。また、紙幣のた めの紙も輸入せずにすむようにこの抄紙会社(東京都北区王子)の敷地の一部に官営 の製紙工場(後の印刷局)が1875年に設立されました。
1914年第一次世界大戦が勃発しフエルトの輸入が困難になりましたが、1917年(大 正6年)日本フエルト株式会社が設立され洋紙に続いてフエルトも輸入に頼る必要が なくなりました。
(会社情報の社歴参照)
この時代は産業革命以来、織フエルトの全盛時代でした。 代表的な製紙機械(抄紙機)は、次の長網(ながあみ)抄紙機と円網(まるあみ) 抄紙機です。
長網抄紙機(英語ではフォードリニアマシンという) |
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| 円網抄紙機 |
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| 水で薄められたパルプは、まず網部(ワイヤー・パート)で地合を形成して湿紙と なり、フエルト上でプレスロールによる加圧で脱水され、カンバス(またはドライフ エルト)に移行して蒸気を通した乾燥ロールにより加熱乾燥されて紙になります。 現在の製紙機械も、基本的にはこのようなプロセスで紙を作っています。 |
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第二次世界対戦後、抄紙機の改善・変革が始まり、やがて製紙機械の大型化・高速 化・高圧化(プレス・パートでのニップ圧:ロールによる加圧)等とそれに伴う抄紙 技術の進歩は、紙・パルプ産業を大きく変貌させています。
従来の織フエルトに代わってニードルフエルトが使用されるようになり、羊毛主体から合成繊維主体のものに、そしてさらに合成繊維100%のフエルトが使用されるよ うになりました。
ニードルフエルトの基本構造は、基布(一般的には織機で織った布)の表面にニードル(針)でバット(短繊維の綿)を植毛したものです。
ワイヤー・パートも抄紙機の進歩に伴い、従来の金属(ブロンズ)製の金網からプ ラスチックワイヤー(釣り糸のような合成繊維の糸を織機で織った布)に変わり、掛 け入れ(製紙マシンへの装着:フエルトと同じく摩耗するので時々取り換える)が容 易で寿命は数倍に延びました。
現在も、抄紙技術及び抄紙用具の性能向上のため懸命な開発努力が続けられています。
(詳しくは、製紙用製品のページを参照してく ださい。)
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